日本最大の藩校 国指定特別史跡・重要文化財

施設紹介

医学館跡(いがくかんあと) 武館跡(ぶかんあと) 正門(せいもん) 対試場(たいしじょう) 正庁(せいちょう) 至善堂(しぜんどう) 文館跡 (ぶんかんあと) 八卦堂(はっけどう) 種梅記碑(しゅばいきひ) 鹿島神社(かしまじんじゃ) 孔子廟(こうしびょう) 要石歌碑(かなめいしかひ) 学生警鐘(がくせいけいしょう) 調練場跡(ちょうれんじょうあと) 土塁及び堀(どるいおよびほり)

 

正門〔重要文化財〕

正門(せいもん)〔国指定重要文化財〕

本瓦葺きの四脚門で、藩主が来館する際など正式の場合のみ開門しました。学生や諸役人は通用門から出入りしました。

正門柱に残る弾痕

(正門柱に残る弾痕)

水戸藩の藩内抗争の最後の激戦といわれる明治元年(1868)の弘道館の戦いのときの弾痕です。この戦火で正門・正庁及び至善堂などを残し、建造物のほとんどが焼失しました。

正庁(せいちょう)〔重要文化財〕

正庁(せいちょう)〔国指定重要文化財〕

正庁は学校御殿ともいい、藩主臨席のもとで文武の大試験が行われたり、その他儀式などに用いられました。

正庁正席の間

(正庁正席の間)

藩主が臨席をして、正席の間や二の間で行われた学問の試験や対試場で行われた武術の試験をご覧になったところです。床の間には、弘道館の建学精神が示された弘道館記碑の拓本が掲げられています。

玄関

玄関(げんかん)

正庁の玄関で、広い式台(しきだい)が設けられています。正面に斉昭自筆の「弘道館」扁額が掲げられています。舞良戸(まいらど)に明治元年(1868)の弘道館の戦いの際の弾痕がのこっています。

 

左近の桜

(左近の桜)

玄関前の左近の桜は、斉昭夫人登美宮吉子が水戸家に御降嫁された時に仁孝天皇から賜わったもので、江戸小石川の水戸藩邸に植えられていたものを弘道館開設の際に移植されました。現在の桜は3代目で、昭和38年(1963)に弘道館の修理工事が完了したのを記念して宮内庁からいただいたものです。

諸役会所(しょやくかいしょ)

諸役会所 (しょやくかいしょ)

来館者控えの間です。床の間の「尊攘」の掛け軸は、水戸藩の藩医で能書家で知られた松延年の筆です。安政3年(1856)に斉昭の命で書かれました。

至善堂(しぜんどう)〔重要文化財〕

至善堂(しぜんどう)〔国指定重要文化財〕

正庁の奥にあり、御座の間をはじめ4室からなります。至善堂の名称は、斉昭が四書のひとつ「大学」の一節からとって命名したもので、「人間は最高善に達し、かつその状態を維持することを理想とすべきである」という意味がこめられています。この部屋は藩主の休息所であり、また諸公子の勉学所でもありました。

 

至善堂(しぜんどう)〔重要文化財〕

(至善堂御座の間)

最後の将軍、徳川慶喜(七郎麿)も5歳から11歳までここで学びました。大政奉還後の明治元年(1868)、慶喜は水戸へ帰り、幼少時代を過ごした至善堂にこもり、静岡に移るまでの4ヶ月間、厳しい謹慎生活を送りました。

対試場

対試場(たいしじょう)

武術の試験などが行なわれた場所です。藩主は正庁正席の間から試験の様子をご覧になりました。

孔子廟

孔子廟(こうしびょう)

孔子廟は、弘道館建学の趣旨のひとつである「神儒一致」の教義にもとづいて、儒学の祖である孔子を祀るために建てられたものです。廟の構造は、大成殿(中国の孔子廟の本殿)を模した入母屋造り瓦葺で、屋上には2種類の架空の動物(鬼犾頭・鬼龍子)の像を置いた特異なもので、孔子の生地(中国山東省曲阜市)の方向(西)を向いています。内部は、土間で高く設けられた室内に孔子神位の木牌を安置しています。

弘道館は、天保12年(1841)に仮開館し、安政4年(1857)に孔子廟と鹿島神社に孔子神位の安置と鹿島神宮からの分祀遷座がなされたことにより、本開館式が挙行されました。

孔子廟は、昭和20年8月2日の戦災で戟門(げきもん)と左右の土塀を残して焼失し、昭和45年に復元されました。

※孔子廟は通常非公開です。

 

孔子廟

*鬼犾頭(きぎんとう):龍頭魚尾で一種の鯱(しゃちほこ)です。竜の頭から水を噴出している形をしており、火災除けの意味が込められています。

 

孔子廟

*鬼龍子(きりゅうし):形が猫に似ていて、すう虞を象ったものといわれています。すう虞とは、虎に似た霊獣で聖人の徳に感じて現れる一種の義獣といわれ、生物を食せず至信の徳があるとされています。

学生警鐘

学生警鐘(がくせいけいしょう)

孔子廟の西側にある鐘楼で、斉昭自鋳の鐘(複製)が吊り下げられています。鐘の外側には、注連縄と八咫鏡(やたのかがみ)および勾玉を榊にかけて垂(しで)をつけた浮彫が施され、斉昭自筆の「物学ぶ人の為にと さやかにも 暁告ぐる鐘のこえかな」という和歌が万葉仮名で浮彫されています。鐘の内側には、斉昭の自著自筆で浮彫りされた鋳造の由来があり、花押が添えられています。学生警鐘は、昭和20年の戦火を免れ、修理が加えられて現存しています。(実物の鐘は展示室で展示しています。)

八卦堂

八卦堂(はっけどう)

建学の精神の象徴である弘道館記碑を納めた八卦堂は、藩校当時は、敷地の中央に位置していました。

八卦堂のそれぞれの軒には、万物変化の相を示す易の算木(さんぎ)を配し、その中に万古不動の日本の道を説いた弘道館記の碑を建てたことは、斉昭の絶妙な発想であるといえます。昭和の戦災で、中の弘道館記碑を守りながら八卦堂は焼け、昭和28年に復元されました。

※八卦堂は通常非公開です。

弘道館記碑

弘道館記碑(こうどうかんきひ)

現在の常陸太田市の真弓山から切り出された寒水石(大理石)に「弘道館記」が斉昭の書および篆額で刻まれています。

「弘道館記」は、弘道館建学の精神を象徴するものです。天保8年(1837)に藤田東湖によって草案が作られ、多くの学者らによって検討が繰り返され、天保9年3月に斉昭の名で公表されました。弘道館という校名は、「弘道館記」の冒頭「弘道とは何ぞ。人、よく道を弘むるなり。」からつけられました。

※東日本大震災で碑身の一部が崩落しましたが、平成25年11月に修復が完了しました。

>>「弘道館記」ダウンロードはこちら

要石歌碑

要石歌碑(かなめいしかひ)

斉昭の自詠自筆で「行末(いくすえ)も ふみなたがへそ蜻島(あきつしま) 大和の道ぞ要なりける」とあり、その大意は「日本古来の人倫の大道は、永久に変らないものであり、日本人はこの道を踏み違いするということがあってはならない」です。歌意と鹿島神宮の「要石」になぞらえて「要石歌碑」という名がつけられました。

種梅記碑

種梅記碑(しゅばいきひ)

斉昭自撰の名文「種梅記」が自筆の隷書で刻まれています。斉昭は、春に魁(さきがけ)て咲く梅を愛し、また梅干しは軍事の際の非常食として役立つとして、偕楽園と弘道館をはじめ、その近郊や士民の家にも梅の木を植えさせました。「種梅記」には、斉昭が梅に込めた思いが記されています。

>>「種梅記」ダウンロードはこちら

鹿島神社

鹿島神社(かしまじんじゃ)

鹿島神社は、安政4年(1857)5月9日に遷座祭が行われ、同時に弘道館の本開館式が挙行されました。鹿島神社の祭神は、天照大神の国土平定の祖業に貢献した武甕槌命(たけみかづちのみこと)で常陸一の宮である鹿島神宮から分霊を勧請して祀ったものです。

昭和20年の戦災で社殿が焼失し、しばらく仮殿のままでしたが、昭和49年の第60回伊勢神宮式年遷宮の折、伊勢神宮別宮「風日折宮」の旧殿一式が特別譲与され、昭和50年5月伊勢神宮独特の「唯一神明造り」の社殿として再建されました。宝物には、斉昭が鹿島神宮の神剣を模して自作した八雲鍛(やくもきたえ)の太刀があります。

※鹿島神社の境内は、鹿島神社が所有・管理しています。

文館跡(ぶんかんあと) ※現在は梅林

文館跡 (ぶんかんあと) ※現在は梅林

文館は、居学・講習・寄宿・句読の4寮のほか、編修局・系纂局・講習別局・教職詰所などがありました。文館の一角には、彫刻場・帳綴じ場があり、書籍の編集や出版の事業が行われていました。

また、文館と学校御殿の間には歌学局・兵学局・軍用局・音楽局・諸礼局があり、専門学科が教えられていました。

明治元年の弘道館の戦いのときに焼失し、現在は梅林が広がっています。

武館跡

武館跡(ぶかんあと) ※現在は水戸市立三の丸小学校

武館は3棟からなり、剣術・槍術などを教えていました。

弘道館では、故事にならい「朝文夕武」といって、午前中は文館へ、午後は武館へ通うという規則がありました。これは、弘道館建学の精神のひとつ「文武一致」をあらわしているもので、弘道館を創設した斉昭は、文館と武館の間に学校御殿を配置することでも「文武一致」をあらわしています。

明治元年の弘道館の戦いのときに焼失し、現在は水戸市立三の丸小学校があります。

調練場跡(ちょうれんじょうあと) 

調練場跡(ちょうれんじょうあと) ※現在は茨城県三の丸庁舎ほか

砲場・弓砲場・馬場・鉄砲場などがあった軍事練習場でした。

明治元年の弘道館の戦いのときに焼失し、現在は茨城県三の丸庁舎と茨城県立図書館があります。

医学館跡

医学館跡(いがくかんあと) ※現在は水戸市三の丸市民センターほか

医学館は天保14年(1843)に開設されました。本草局・蘭学局・講習寮・製薬局・調薬局・療病所・牛部屋・薬園などからなり、医学の講義のほか、製薬や、当時流行していた天然痘の予防接種「種痘」などが行われました。

明治元年の弘道館の戦いのときに焼失し、現在は水戸市三の丸市民センターがあります。

土塁及び堀

土塁及び堀(どるいおよびほり)〔県指定史跡〕

水戸城三の丸の土塁と堀です。

水戸城は、那珂川と千波湖にはさまれた台地の東端に位置し、鎌倉時代の初めに馬場氏が築きました。その後、江戸氏、佐竹氏が城主となり、江戸時代には徳川家康の13男である頼房が初代水戸藩主として入城しました。

水戸城三の丸には重臣の屋敷がありましたが、斉昭は屋敷を移転させ、弘道館が建てられました。

水戸城には天守や石垣がなく、二の丸に御殿と三階櫓などがありましたが、明治元年の弘道館の戦いや、昭和20年(1945)の戦災で焼失し、現在は薬医門(本丸跡)のほか、本丸跡・二の丸跡・三の丸跡の土塁と堀が残っています。