日本最大の藩校 国指定特別史跡・重要文化財

資料紹介

扁額(へんがく)

「弘道館」扁額

資料名:「弘道館」扁額(「こうどうかん」へんがく)

斉昭の書で表面に「弘道館」、裏面に「天保十二年仲冬日書」と刻まれています。天保12年(1841)8月1日の仮開館式を終えた後の仲冬(11月)に書かれ、正庁玄関に掲げられました。大きさは縦85㎝、横50.5㎝で玄関にふさわしい風格のある扁額です。

「游於藝」扁額

資料名:「游於藝」扁額(「げいにあそぶ」へんがく)

この扁額は、対試場に面した正庁の長押に掲げられています。縦90㎝、横248㎝の大きな欅板に斉昭書で「游於藝(げいにあそぶ)」と刻まれています。「游於藝」は、「論語」述而篇の一節「子曰 志於道 據於徳 依於仁 游於藝」(子曰く 道に志し 徳に拠り 仁に依り 芸に遊ぶ)によります。「游於藝」の「藝」は六芸(りくげい)、礼(儀礼)、楽(音楽)、射(弓術)、御(馬術)、書(習字)、数(算数)をさします。「文武にこりかたまらず悠々と芸をきわめる」という意味があります。

絵図

弘道館全図

資料名:弘道館全図(こうどうかんぜんず)

弘道館全図は、軸装で本紙部分の大きさは縦182㎝、横160㎝、学舎の間取りまでが詳細に描かれた平面図です。明治32年(1899)に模写されたものです。正庁・至善堂(学校御殿)の北側に文館、南側に武館を配して「文武一致」を、聖域とされた区域に鹿島神社と孔子廟を併置して「神儒一致」を表すなど、建物の配置で建学の精神が示されていることが分かります。また、弘道館記碑を納める八卦堂が敷地中央に配置されていることも、この全図から明瞭にみることができます。

弘道館鳥瞰図

資料名:弘道館鳥瞰図(こうどうかんちょうかんず)

鳥瞰図(ちょうかんず)とは、高い所から見おろしたように描いた風景図のことです。弘道館鳥瞰図は、昭和40年(1965)に橋本東岳(とうがく)によって模写されました。弘道館は、藩内抗争や空襲によって多くの建造物を焼失しており、この資料は弘道館全図とともに開設当時の弘道館の全景を知る貴重資料です。

拓本

弘道館記碑拓本

資料名:弘道館記碑拓本(こうどうかんきひたくほん)

弘道館記碑拓本は、正庁正席の間の床の間にかけられています。建学の精神を示した「弘道館記」は、徳川斉昭の起草、藤田東湖の草稿により、さらに多くの学者による推敲を経て天保9年(1838)に斉昭の名で公表されました。「弘道館記」は、領内真弓山(現在の常陸太田市)から切り出された寒水石に刻まれ、弘道館の敷地中央に配置された八卦堂に納められました。

>>「弘道館記」ダウンロードはこちら

要石歌碑拓本

資料名:要石歌碑拓本(かなめいしかひたくほん)

 弘道館記碑とともに建学の精神を表す要石歌碑の拓本です。石碑は孔子廟の南側に建っています。斉昭詠「行末毛 富美奈太賀幣曽 蜻島 大和乃道存 要那里家流」(行く末も 踏みなたかへそ あきつ島 大和の道そ 要なりける)の歌が、自身の文字で書かれています。「日本古来の道徳は永久に変わらないものであるから、日本人である者はこの道を踏みちがえることがあってはならない」という歌意があります。

賛天堂記拓本

資料名:賛天堂記拓本(さんてんどうきたくほん)

「賛天堂記」は、天保14年(1843)年に開設された医学館に掲げられていました。医学館開設の主旨を記したもので、外国に頼らず国内で良薬を製することの重要性を説くとともに、医学館から日本のあるべき医学・医療体制を発信したいという大きな抱負が示されています。「賛天」とは、四書のひとつ「中庸」の「能く物の性を尽くせば、則ち以て天下の化育を賛くべし」(よく物の性をまっとうすれば、天地の生育する働きを助けることになる)という一節によっています。現在、「賛天堂記」の版木は確認されていませんので、この拓本が唯一の資料になっています。

>>「賛天堂記」ダウンロードはこちら

印鑑

蔵書印「弘道館印」

資料名:蔵書印「弘道館印」(ぞうしょいん「こうどうかんいん」)

蔵書印「弘道館印」は鋳造で、縦8.5㎝、横8.5㎝、重量は約2450gです。朱肉付きの収納箱とともに保管されています。弘道館運営上の公印というよりは、蔵書印として使用されていたものと思われます。現在、弘道館事務所が所蔵する書籍のうち、「弘道館印」の蔵書印が確認できるものは54冊です。

版木

「喪祭式」版木と同版本

資料名:「喪祭式」版木と同版本(「そうさいしき」はんぎとどうはんぽん)

弘道館の文館の一角には、編集方・彫刻場・帳とじ場など、書籍の出版や編集の事業が行われていた場所がありました。弘道館事務所には、当時使用されていた版木のうち117枚が保管されています。写真は「喪祭式(そうさいしき)」の版木と版木で摺られた版本です。版本には、「弘道館印」という蔵書印も朱色で押されています。

文書

弘道館書目

資料名:「弘道館書目」(こうどうかんしょもく)

「弘道館書目」は藩校当時の蔵書目録です。この蔵書目録には、6,000冊を超える書籍が記されています。膨大な数にのぼる蔵書は、明治元年(1868)の弘道館の戦いで一部を焼失し、さらに昭和20年(1945)の水戸空襲の戦火や戦後の混乱で多くを焼失・散逸してしまいました。焼失・散逸を免れた蔵書のうち、弘道館事務所が保管しているのは約60冊です。

資料名:「蕃痧病の手当并治方」

資料名:「蕃痧病の手当并治方」(ばんさびょうのてあてならびになおしかた)

「蕃痧病の手当并治方」(ばんさびょうのてあてならびになおしかた)は、「水府医学館」(弘道館の医学館)が安政6年(1859)に刊行しました。安政年間に流行したコレラ病の対策として水戸領内に頒布されたものです。当時、コレラ病は命にかかわる病気でした。この「蕃痧病の手当并治方」には、一般の人々でも身近なもので出来るコレラ病の予防法が書かれています。

異国船の図(「安政二乙卯雑書」)

資料名:異国船の図(「安政二乙卯雑書」)(いこくせんのず)

安政年間に水戸領内の海岸線に異国船が出没した際の様子を描いたものです。幕末になると水戸領内の海岸線にこの絵のような異国船が出没するようになりました。徳川斉昭は、「日本の独立を守り、国や藩を発展させるためには、すぐれた人材を育てることが大切である」と考え、藩校弘道館を建設しました。

青門肖像(模写 部分)

資料名:青門肖像(模写 部分)(せいもんしょうぞう)

青門肖像(せいもんしょうぞう)は、青山拙齋(せっさい)塾の門下生の肖像画集です。水戸城下には多くの塾があり、この塾で基礎学力をつけた藩士の子弟たちが弘道館に入学しました。この肖像画集には、一人一人の門下生が表情豊かに描かれています。数人の頬にみえる斑点は、当時流行していた天然痘の跡です。

書跡

二大字「尊攘」

資料名:二大字「尊攘」(にだいじ「そんじょう」)

この書は、安政3年(1856)に徳川斉昭の命により、水戸藩医で能書家として知られていた松延年が書いたものです。

吉田松陰自筆漢詩

資料名:吉田松陰自筆漢詩(よしだしょういんじひつかんし)

明治維新の精神的指導者といわれる吉田松陰(1830-59、長州藩士)は、東北奥羽地方へ遊学の途中、嘉永4年(1851)12月19日から同5年1月20日まで水戸に滞在しました。松蔭22歳の時です。水戸に滞在中の松蔭は、会沢正志斎や豊田天功ら水戸藩の学者に教えをうけました。この資料は、水戸での宿泊先であった永井政介家の子息で、年齢が近く意気投合した芳之介に松蔭が贈った惜別の詩です。

写真

弘道館全景写真

資料名:弘道館全景写真(こうどうかんぜんけいしゃしん)

この写真は、フランス将軍ルコンテによって明治8年(1875)に撮影されたといわれる弘道館全景写真です。写真原版は石黒コレクション保存会に所蔵されています。弘道館に関する写真としては、現存する最も古い写真です。

弘道館に県庁が置かれていた頃の写真

資料名:弘道館に県庁が置かれていた頃の写真

明治5年(1872)から約10年間、弘道館に県庁がおかれていました。この写真は、正門に「茨城県庁」と書かれた看板が掲げられた貴重な写真です。また、県庁がおかれていた時期は、正門の前の階段がスロープになっていたことが分かります。

大手橋と弘道館の写真

資料名:大手橋と弘道館の写真

大手橋と弘道館を撮影した古写真です。大手橋の上を2台の人力車が走り、弘道館前には着物姿の人が写っています。大正から昭和初期に撮影された写真だと思われます。